【第15話】帰京の朝
一日に、観、聴き、嗅ぎ、触れ、そして味わったもので、
ブログの2つや3つは書ける毎日を10回過ごしてアトリエに帰ったのが三昨夜である。
岬の高台から臨む圧倒的な広がりの海は、逆光となった島影と空以外の全てを煌めきで満たし、
何を見ているのかが分からなくなる神々しさだった。
入り江に満ちた潮は翡翠を溶かしたかの様な色合いでやわらかに透き通る。
竜ヶ岳山頂からは視界の全てが、足元から切り離されそのまま飛び立てそうな気がした。
小高い丘の上に建てられた大江の教会は村のどこからでも手を合わせることが
出来るだろう。
身を寄せ合う様に入り江に並んだ家々の真ん中に佇む崎津の教会では夕刻
ステンドグラスに照らされながら独りオルガンを弾く神父様を見たことがある。
味覚に話を移せば、朝獲れた魚でメニューが決まる大皿に並んだお刺身は
鯛、キビナゴ、太刀魚、カンパチ、等など透き通った白身で
その味わいは風味歯ごたえ共に繊細を極める。
見た目がユーモラスなセミエビのお味はイセエビそのもの。
また、ミナ(小さな巻貝の一種)は楊枝でクルリと引っ張り出していただく
手順も楽しい珍味だし、オコゼの唐揚げはヒレまでパリッと美味である。
そして何処へ行っても「こんにちは」の挨拶ひとつで笑顔となる人々の温厚さは
昔と変わることが無かった。
父、母、弟、妹、甥、姪、犬、猫、それぞれの内に流れている時間は
周りの時間にしなやかに対応し皆幸せそうな表情を覗かせている。
郷里の隅々まで見て回って迎えた帰京の朝
今はもう祖父ちゃん祖母ちゃんと呼ばれるようになった父と母に
「死ぬのは怖くないね?」と問うてみた。
父は「うん、おっだいっちょんおとろしゅう無か、ほがん自然なことは無かけん。」
(自分は全く怖く無い、それ程自然な事はないから)と即座に答える。
そこに母が「生きとる間は死なんとて、大丈夫。」
(生きている間は死なないから大丈夫)とさらりと加えてみせた。