私の師 『西江雅之先生』 一周忌
私の師である西江雅之先生が一年前の今日ご逝去された。
便りがないのは元気な証拠、いつもひょっこり掛ける電話の向こうには
お変わりない声が聞けていたのが油断となり
一昨年からの入院闘病の先生の時間に気付くことが出来なかったのが今も悔やまれる。
西江先生との出会いは今から30年前、大学でのこと。
単位とは関係なく2年目も聴きに出ていた文化人類学の講義室の景色が目に浮かぶ。
毎年春先に芸術系大学の交流行事として四芸祭というのがある。
その影響でガランとした講義室で先生は
「今日は何か質問がある人は何でも聞いてください」と言われた。
一人手を上げた私は「先生の生まれてからこれまでの事を教えてください」と言ってみた。
そこからの90分は講義室に居合わせた他の学生達と共に特別な時間となった。
東京に生まれ猫になりたかった先生は戦争中の疎開先でも猫的に生きておられた。
戦後間もなく放送された「鐘の鳴る丘」では主役を演じられたし、
「鐘が鳴りますキンコンカン、、」の歌も幼き日の先生の歌声だった。
学校では1+1=2が分からず数学につまずき
当時二階建てだった校舎では階段は先生には無用、上がるときにはサルの様に、
また下りるときには、ひらひらと窓から舞い降りていたそうだ。
そんな猫的身体訓練の賜物からか、高校では体操で輝かしい成績を残し、
早稲田大学在籍中に学生を中心としたアフリカ探検に参加されたりもしている。
その時たった一人アフリカに残られた先生が縦断された道程は
アルチュールランボーが辿った道と同じだったそうだ。
20代で日本で初めてとなるスワヒリ語辞典を編み、フルブライト留学生となり、
世界各国をフィールドワークとし、学校の国語の教科書に載り、
40歳になるまで定職を持たれなかった先生。
専門分野は言語学、文化人類学で芸大、東大、外語大、早稲田などで教鞭をとっておられた。
私が出会ったのは先生が丁度今の私の年齢位のころだった。
学生数が他校に比べ少ない芸大で私は入学した年から
修了するまでの6年間西江先生の講義に出続けた。
講義の前後時間の空いたときに学生たちと談笑しながら過ごす先生はいつも自然体だった。
大学を修了してからも音信は取り続けていたし時折届く
地球の裏側からのエアメールも嬉しかった。
先生のご自宅にも何度もお邪魔させて頂いた。
何度か引っ越しをされた先生のほぼ終の棲家となった蝦蟇屋敷では
したたかに酔っぱらったこともある。
いつもしなやかで気品に満ちた先生は自然体のままに人生の大事を色々な形で教えてくださった。
その思い出は今も私の人生の宝ものである。
追伸
遺品の中から分けて頂いた写真の中の先生は
今日もアトリエの一番高いところから私の制作を見守っていて下さる。