【第6話】わたしのテーマ
「日々世の中に発生してしまうどうしようもない悲しみや理不尽また恐怖
そういった感情を知ってしまった人々や生き物達の心を、
(本人達に気が付かせる事無く)瞬時に癒す力を秘めた絵を描く事」
これが私の制作のテーマです。
今日は私がこのテーマへ至った経緯を簡単に振り返ってみます。
幼少の頃の私は何かを作ることが好きだった。
手元で作り出されて行く物体は私の中でどんどん大きくなって
全宇宙と同じ世界がそこに発生したものだ。
一方、立体物を作ることに没頭しその中で楽しむ感覚は
何故か絵を描く事とは繋がらず苦手なものとなりそのまま義務教育を終えた。
高校を卒業して上京し絵に本気で取り組み始めたときにも
「みんな絵が好きなんだろう?画家になりたいんだろう?」
と問われて迷わず手を挙げるみんなが羨ましくもあり、また後ろめたくもあった。
私の中には両方の感覚が無かったのである。
動機の無いことを生涯のテーマとしてしまった怖さから
とにかく必死で取り組んだことを覚えている。
その頃の私の制作は常に何がなんだかわからないまま
(何をしているのか、何処へむかっているのかわからないまま)続いたが
時おり聞こえる妙なる調べの感じと陶酔感が少しずつ
麻薬的に私の中に染み込んで行った。
大学を卒業してから気がついたが当時の私は制作の中で「理解」をしたかった様だ。
この「理解」は私自身が「わかる」ことで完結する種類のものでその場(制作)を離れれば
出来上がった作品を人に見せることへの意識は強くはなかった様に思われる。
ところが30代後半の何時ごろからかもうひとつの絵の完成があることに気がついた。
サインを入れ制作を終えた作品が目の前に在るとする。
その絵を観た人々が頭の中に感じ取って見た「絵の中の絵」は私には見る事が出来ない。
絵を観た人(生き物)の数だけ完成した絵が発生するわけである。
私に出来るのは、そのそれぞれの一瞬に特別な感じを発生させることだけである。
「何が描いてある、好きな色だ、嫌いな色だetc,,」と感じるよりも速く伝わる
絵の内容が大切だ。
誰もが持っている先入観やそれぞれの記憶に打ち勝ってそれより先に(速く)
「絵の中の絵」が見えて来る為には物質そのものとしての特異が必要である。
数年を経て白亜地刻描として完成する私の画法は
以上のことをがむしゃらな無意識の中に孕んだまま
常に「本当に?」と問いかけ、「こうではない」と判断を下す
感性のみを頼りに彷徨した結果辿り着いたものである。
そう云うさまよいの中でいつの間にか浮かび上がって確固したテーマが
わたしのそれである。
追伸
好き嫌いは使い方によっては強力な動機となるが永い時間のふるいに掛けてみた時
あまり重要ではない。
25年前に手を挙げることが出来なかった私は画家の道を歩み
またその道のりを愛している。